セントポール教会&ザビエル像-非ハゲ(マレーシア)
スタダイスの横階段を登り、小さな丘を登っていくと見えました。
セントポール教会&フランシスコ・ザビエルの像
フランシスコ・ザビエルの生涯
ヨーロッパのナバーラ(ナバラ)王国(後にスペインに併合)という国で誕生。
パリで世界宣教を目的にしたイエズス会を設立。
その後司祭となり、いざ宣教の旅へ。
リスボンから出発して、アフリカへ寄港しつつ、インドのゴアへ到着。
インドにはすでに教会がありましたが、そこで布教活動をします。
数年後、まだキリスト教の影響が少ないマラッカを目指して再び旅立ちます。
マラッカでは、ヤジロー(ヤジロウ、アンジロー)という鹿児島出身の日本人が、ザビエルの事を待っていました。
このヤジローという人物、詳しい素性はよく分からず武士とも商人とも言われているようです。
薩摩で人を殺し、ポルトガル船に逃げ込み、そのまま海外へ脱出。
人を殺したことへの後悔からキリスト教に興味を持ち、宣教師がやってくるという噂を聞いてマラッカでザビエルの到着を待っていたのです。
このヤジローとの出会いと、ヤジローを乗せ日本から出発した船の船長から聞いた情報によって、日本に興味を持ったザビエル。
一度インドのゴアへ戻り、準備を整えてから日本へと向かいます。
日本では各地に赴き宣教活動に勤しんだり、僧と宗教談義をしたりと過ごし、九州・山口周辺まで布教する事に成功しました。
2年の滞在後、更に布教活動を広めるために一度インドへ戻ることにしました。
ザビエルはゴアに戻ると日本へさらなる宣教を行うための準備をし、自身は中国へと渡ります。
中国本土への入国に手間取る間に亡くなってしまいます。
遺体は一度中国で埋葬されたものの、マラッカへ渡り、セント・ポール教会へ埋葬されます。
そこから更に、インドのゴアへ移送。
現在ではボム・ジーザス教会に安置されていますが、10年に1度遺体を公開されることになっているようで、その際には別の教会に移される事もあるようです。
また、遺体には右腕がなく、その右腕はローマのジェズ教会にあります。
ザビエル像
右腕がありませんが、髪の毛はあります。
右腕がない理由には諸説あるそうですが、調べて一番多く出てくるのが
ザビエルが亡くなった後も遺体は綺麗なまま=聖人だから
という噂を聞きつけたローマ教皇が「本当なら右腕だけでいいから切って送れ」と言ってその通りにした。
という説です。
ちょっと乱暴に書きましたが、どんだけ丁寧に書いても「おいおい」とつっこみたくなるような話です。
セント・ポール教会の直ぐ側には、フランシスコ・ザビエル教会があります。(ツアーでは立ち寄らず)
フランシスコ・ザビエル教会にも、ザビエルの像がありますが、右腕はちゃんとあるようです。
一緒にヤジローの像もあるそうです。
セント・ポール教会
イスラム国であったマラッカをポルトガルが占領して1521年に建てた教会。
元々はメインで使われていたであろう大きな部屋の部分は天井がありません。
壁だけ残っています。
これはマラッカの支配権が、カトリックのポルトガルから、プロテスタントのオランダやイギリスに移りました。
このためカトリックの権力も弱まり、カトリックの教会であったセントポール教会も徐々に朽ちていったのだそうです。
セントポール教会の石碑はなに?
この壁にはぐるりと中二心をくすぐるようなレリーフが入った石碑が置かれています。
文字もありましたが、英語ではなさそう。
これは一体なんだろう?と不思議だったのですが、マレーシアマガジンに答えが書いてありました。
墓石です。
マレーシアが独立を果たした際に、丘に知事公邸を建てることにしました。
あちこちにプロテスタントのお墓が点在していましたが、ようやく占領から解放されたんですから、そんなこと知ったこっちゃないですよね。
代替地も用意しません。
そこで、カトリックの教会であるセントポール教会が、墓石の置き場所として手を挙げました。
宗派の違いを乗り越えて助けてあげたわけですね。
フランシスコ・ザビエル安置場所
教会を奥に進むと、屋根がありたくさんの人が集まっている場所がありました。
壁もレンガではなく白壁。
フランシスコ・ザビエルが安置された場所です。
大きな檻があって覗き込むことが出来ます。
中には各国の紙幣がみっちり。
現地ガイド曰く月に1度回収されるそうです。
マレーシアを周遊してきた中で一番、白人が多い場所でした。
日本人が観光でお寺や神社に行くのと同じ感覚なんでしょうか?